西俊輔の「毎日楽しく」

2015年2月号 Vol.114

ここ数日、イスラム過激派組織による日本人拘束事件がテレビや新聞などで連日のように報道されています。今回問題となっている組織は他のイスラム過激派組織と比べても規模が大きく組織的な点と、またその残虐性から他の過激派組織とは若干異質な印象の組織です。この原稿を書いている時点では日本人人質がどうなるかまだわかっていませんが、どうか無事に戻ってきてほしいものです。

その日本人拘束事件に先立って、フランスでは出版会社がイスラム過激派に襲撃され、12名もの人達が犠牲になるという痛ましい事件がありました。イスラム教の預言者に係る風刺画を自社の週刊誌に記載したことが理由でした。どんな理由があるにせよ、暴力によって人の命を奪うことが許されるはずなどないことは言うまでもありませんが、この事件で大きな話題となったのが、表現や言論の自由という考え方です。

歴代の法王と比べて進歩的と評される現在のローマ法王がこの事件について、「神の名において人を殺すのは愚かしい」と述べる一方で、「他人の信仰について挑発したり、侮辱したり、嘲笑したりすることはできない。」と、フランスの出版会社側にも非がないわけではないという意見を述べました。

ところが、このローマ法王の発言に反論するような形でイギリスの首相がテレビのインタビューで、「自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する」と述べていたそうです。

首相はさらに、「私はキリスト教徒だが、たとえ誰かがイエスについて不快なことを言っても、復讐を加える権利はない。法律の範囲内である限り、新聞社や雑誌社は一部の人々を不快にする刊行物でも出すことができる」とも述べていたそうです。

イギリスの首相が言っていることはもっともで、たとえ、他者を不愉快にするような内容であっても言論の自由は尊重されなければならないと私も思います。ただ、法律や制度としてこうした言論の自由が保障されるということと、実際にその権利を行使して他人を不愉快にするかという倫理的なこととは分けて考える必要があると思っています。

自分が大切にしているものを嘲られることによって人を殺すことも辞さない相手に対して、なぜあえてケンカを売るようなことをしなければならないのかという疑問を持ってしまった私は、そういう意味でローマ法王の意見のほうが感覚に合うのですが、みなさんはどう思われますか?

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